出席者:
普通鋼電炉工業会猪熊研二会長(合同製鉄社長)
高島成光副会長(共英製鋼会長兼CEO)
日本鉄リサイクル工業会鈴木孝雄会長(鈴徳社長)
中辻恒文副会長(中辻産業社長)
司会:
産業新聞社青木廉典編集局長
世瀬義久企画編集局長
電炉業界と鉄スクラップ業界は、需要家と供給者として密接にかかわっている。弊社が本年創立70周年を迎えたことを機に、電炉、鉄スクラップ業界のトップ4氏を招き、座談会を開いた。入社以来の思い、業界の置かれた現状やこれからの課題、人材育成などを率直に語り合ってもらった。(本文は敬称略)
司会=電炉、鉄スクラップ業界に初めて属した当時の感想を聞かせて下さい。また、特に印象に残った出来事などがあれば。
猪熊「高炉メーカーの新日本製鉄に約40年在籍し、その後、普通鋼電炉メーカーの合同製鉄に社長として就任した。高炉に属していた時期から、電炉業界は企業数が多く原料の鉄スクラップは安定供給に程遠く、かつ、価格が乱高下するため収益を上げることが難しく、経営が大変だと思っていた。一方で電炉業は東京製鉄がH形鋼に参入して以来競争相手でもあり、新日鉄の取締役時代にはH形鋼を担当し、東京製鉄といわゆる『第三次H形鋼戦争』を始めた。電炉は高炉と比べ設備投資が小さく、人員も少ないため製造コストが低いことを最大の武器としてシェアを拡大してきたが、転機は1990年代前半に為替が100円を超える円高になったことにより、原料を輸入に依存している高炉の製造コストが下がり、初めて電炉メーカーと製造コストで競争できる見通しが立った。特に限界コストでは、高炉優位が明らかとなった」
高島「61年に高炉メーカーの住友金属工業に入社した。61年は日本の青春の始まりの年だった、と思う。68年には高島家がオーナーとなっている共英製鋼に入った。高炉時代は、電炉業は鉄鋼業界の大切なメンバーという認識だった。70年代までは青春があったが、71年のニクソンショックで為替が1ドル308円になり、2年後の石油ショック、さらに第2次石油ショック、85年のプラザ合意で利益の出ない業界になった。スクラップは『マルサスの世界』で需要の増加に対して不足するのに、製品価格は『アダム・スミスの世界』で完全な自由競争。みんなが一生懸命働いているのに、収入はいつも不安定かつ安かった」
司会=鈴木会長、中辻副会長ともオーナー家の企業に入られた。
鈴木「68年に鉄スクラップ業者の鈴徳に入社し、そこで初めて鉄スクラップに出合った。入社当初は鉄スクラップの商売はラフだなと思った。90年までの鉄鋼業界は、日本経済の成長と同様に急激に成長した。今の中国と同じで常に原料が足りず、製品は造り過ぎの状態だった。鉄スクラップ業界は90年のバブル崩壊で右肩上がりの成長モデルが終わり、経営の質が問われるようになった。その間、円の為替レートは切り上がり、それに反比例して鉄スクラップ価格は下落した。そのままいくと日本でも企業の淘汰は進んでいたが、中国経済が立ち上がったことで、昨年までの数年間は価格が上昇して利益が出せた。ただ、みんな儲かったことで構造改革は休止し、業界の集約、再編は先延ばしとなった」
中辻「75年に鉄スクラップ業者の中辻産業に入社した。当時、鉄スクラップ業界は電炉業界を含め、通商産業省(現・経済産業省)の主導で過剰設備の廃棄を進めていた。鉄スクラップ業界は集荷力が重要というイメージだった。その後、鉄スクラップ業界には大きな出来事が2つある。1つは95年に日本が鉄スクラップの純輸出国になったこと。2つ目は00年を境に循環型社会形成基本法に基づき各種リサイクル法が整備されたこと。また、90年代後半に業界の自主的な取り組みとして逆有償システムを構築した。しかし、中国の粗鋼生産の伸びにより鉄スクラップ価格が上昇したことで、今まで積み重ねてきた逆有償システムが崩壊しつつあることは気掛かりだ」
座談会<上>
座談会<中>
座談会<下>