有力鋳造メーカーである昭和電気鋳鋼(本社=群馬県高崎市)の手塚加津子さんは、2代目社長である父・天野和雄氏の急逝によって、2002年に入社し、07年には社長に就任して、厳しい経営環境下で設備近代化と業績回復に取り組んでいる。手塚社長にこれまでの道のりなどを聞いた。
――創業家として3代目のトップになるが、鋳鍛鋼の世界に飛び込んだのは突然の出来事があったと聞いている。
「昭和電気鋳鋼は祖父・天野定次郎が苦労の末に創業しました。父・天野和雄が2代目社長に就任し、鋳鋼という素材に目を付けて、鋳鋼製造に事業を特化しました。大きな決断だったと思いますが、偉業であったと感謝しています。子供が娘2人ということもあって、父も『俺に任せろ』という感じで、私に家業を継がせる意思はありませんでした。大学卒業後は母校で歴史の教師を3年間務め、結婚し、家庭に入っていましたが、01年に父が急逝。負の遺産が多く、弁護士からは会社を手放すことを勧められました」
――ただ、04年に入社する。
「祖父も父も当社をとても大事にしていたのを身近に感じていたし、働いている社員の姿を見て、『この会社を簡単に畳むことは決してできない』と強く思いました。社会人経験が少ない私に何ができるか分からないが、できる限りのことを精いっぱいやってみようと、飛び込みました。最初はウェルカムな雰囲気ではなく、私が工場にいると『新しい事務員さん?』と声掛けされることもありました(笑)。入社当時は総務部長。3年間の経験を経て、06年に代表権のある専務になり、07年に社長に就任しました」
――入社当時の経営環境は。
「01年にITバブルがはじけ、業績が悪化したものの、その後は中国をはじめとする新興国が台頭し、主力需要分野である建設機械が爆発的に売れたことで、当社の業績も大きく伸長しました。当時、本社工場は設備の老朽が激しく、社員も会社が存続するのかと不安に思っていたので、『着眼大局、着手小局』で基幹設備のリプレースを毎年計画し、一歩ずつ着実に実行しました。この一環として、12年には国内立地推進事業費補助金を活用し、3トン高周波誘導炉と 当時世界最新鋭と言われたカナモリシステムの全自動機械造型ラインKDM10を新設しています。設備を更新すると、現場が息を吹き返し、社員の顔が明るくなりました。『会社を良くしよう』という社員のベクトルが合って、全社一丸となって取り組むことができています」
――その契機となったのが5S活動とか。
「旧態依然とした企業風土を変えようと検討を重ねる中で、コンサルタントの力を借り、5S活動、VM(ビジュアル・マネジメント=見える化)活動、ISO活動を展開することにしました。これらの活動を進めていくうち、魔法をかけたように会社がきれいになり、『基本回帰、凡事徹底』がいかに大事であるかを痛感。生産性や品質が向上し、業績も堅調に推移しています」
――07年の社長就任から17年が経つ。
「入社後は毎日メモを片手に現場を回り、社員の名前を覚え、どのような仕事をしているかを観察し、困り事はないかとヒアリングしていましたが、今も社員が気持ち良く、楽しく仕事ができる環境を整えることに努めています。企業運営は常に順風満帆ではなく、困難が訪れてもくじけない心、諦めない心を持ち続けていたいと思っています」
――昭和電気鋳鋼には女性社員が9人で、全社員の1割となっている。また、ダイバーシティも進めている。
「女性を積極的に採用しており、生産現場いわゆる現業は3人で、総務と経理、営業と生産管理を含めたトータルは9人。責任感があり、職場が明るくなりますね。女性にとっても働きやすい職場環境を創出するよう取り組んでいます。またベトナムから技能実習生の受け入れもすでに18年になり、大事な働く仲間となっています。日本では生産年齢人口が減り、当社のような労働集約型ビジネススタイルでは門戸を開いていかなければ存続できないと考えています。当社製品は一品一葉で職人技が必要ですが、実習生もしっかり技術を習得してくれています。デジタル化を進め、独自のクラウドシステムを駆使して、品質と納期の精度を高めて、当社の価値を認めてもらえるよう切磋琢磨していきたいです」
――これからの目標は。
「社長は駅伝のランナーで、良い状態でバトンタッチするのが役割だと思っています。そのためには社員から愛される会社にすることが大事。また、社員の能力を引き上げ、老朽設備を更新しながら、製造難度の高い製品も『昭和ならできる』という評価を顧客から得られるよう、引き続き取り組んでいきます」
(濱坂 浩司)
鉄鋼業界で活躍する女性をはじめとした多様な人材、未来を担う人材を、随時紹介していきます。