国内営業だけでなく、海外営業で活躍する女性も増えている。三井物産では、オランダを本社とする電磁鋼板の加工センター、Euro―Mit Staal(ユーロミットスタール、以下EMS)に原麻里子さんが出向中。社長として、74人の社員をまとめ上げている。これまでの生い立ちや就職活動、業務内容などについて聞いた。
――入社までの経緯を。
「父の仕事の関係で、5歳から18歳まで米国に住んでいました。日本の学校法人が現地で運営する高校に通っていたのですが、当時は駐在員の子供であることが入学条件だったので、同級生の親は全員駐在員だったんです。ほとんどが商社でしたね。イスラエルやブラジル、ロシアなどさまざまな国に住んだことのある同級生ばかりで、彼らの存在はもちろん、いろんな国で働くということに憧れ、刺激を受けました」
――米国生活の中で商社志望に。
「大学入学のため帰国後、海外で育った経験や、いろんなものを仕事で扱ってみたい気持ちから、就職活動では商社を志望しました。三井物産の2次面接の際、面接官の方がとても話しやすくて、信頼できそうだなと感じたんです。部下への思いや仕事・会社に対する考えをお伺いし、『こんな人と仕事がしたい』と強く思いました。2006年に入社し、鉄鋼製品本部に配属されたのですが、ふたを開けてみると面接官の方が所属されている部署だったんです。面接がご縁となり、鉄鋼業界と出会いました」
――入社後は。
「薄板部電磁鋼板室で、方向性電磁鋼板の海外営業の担当になりました。国内高炉メーカーの製鉄所でコイルの製造過程を見学し、スケールの大きさにびっくりしましたね。先輩方から事前に“トイレットペーパーのロールみたいなもの"と説明を受けていたのですが、『トイレットペーパーじゃないじゃん! もっと別物!』と思ったのを覚えています(笑)。営業自体は変圧器メーカー向けで全世界が対象。中国や欧州、インドなど多岐にわたります。国によってビジネスの交渉スタイルが違うんですよ。中国はベタベタした関係。会食をして飲みながら交渉します。欧州は、人間関係よりも価格やスペックを重視していてシンプルで分かりやすい。インドは無理だと思うこともどんどん言ってこられます(笑)。そういったコミュニケーションなどを取るうちに、仕事が楽しいと感じるようになりました。国内での会食も多かったです。仕入れ先との会食では、製品のことを教えてもらったり、お客さまの会社の歴史を教えてもらったり。直接的な業務以外でもお客さまとやり取りを行うことでいろいろ吸収することができました。そんな時間も好きでしたね」
――印象に残る業務は。
「リーマン・ショック発生時です。入社3年目だったのですが、価格もコストもどんどん上昇していたのに、一気に崩れました。お客さまからは、合意した年間契約や価格の見直しを依頼され、国内鉄鋼メーカー・私たち・お客さまの3社間で3週間くらい連日話し合いましたね。何とか妥協点を見つけ決着できたものの、マーケットが急降下するとどうなるのか目の当たりにし、眠れない日々が続きました。ただ、毎日やりとりすることでお客さまと何でも腹を割って話せるようになった気がします。話し合いをした方の中には、現在の仕事で最大のユーザーとなってくださっているお客さまもいるんですよ。大変だったけれど、この時を乗り越えたから今があると思います」
――研修でロシアへ行かれたそうですね。
「ロシア研究員としてサンクトペテルブルグで語学研修を1年、その後モスクワ鉄鋼課で1年勤務しました。米国で育ったこともあって、正直ロシアに良い印象を持っていなかったんです。自分自身でどんな国か知ってステレオタイプを捨てたくて希望を出しました。キリル文字が1つも分からない状態で飛び立ちましたが、1年勉強したら日常会話はできるようになりましたね(笑)。仕事では加工センター立ち上げの投資案件に携わりました。土地の確保以前の契約に関する交渉がメインでしたね。実際のロシア人は心温かい人が多かったです。最近はウクライナ侵攻が日々報道されており、ウクライナの方はもちろん、ロシアの一般国民の状況を思うと心が傷みます。それほど、固定観念を捨てられた2年間でした」
――その後は。
「帰国後、三井物産スチールへ出向し、自動車部門棒線貿易部に異動しました。タイヤコード用線材を、欧州や中国など世界各地に輸出していましたね。普通に生活していたら見る機会がなく、どこに使われているのか想像もしにくいですが、目に触れないものに携わったり、どう作られているか知ったりするのが逆に面白いと感じていました。その後、三井物産の戦略企画室、再び出向で三井物産スチールの薄板海外事業部門電磁鋼板部へ異動し、21年2月から現在のオランダ勤務となりました」
(芦田 彩)