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2024.10.30
2022年5月27日
鉄鋼業界で働く/―女性技術職・部長編― インタビュー(上)/化学が必要とされる産業
約40年にわたり、鉄鋼業界で研究に従事する女性がいる。JFE建材のホーロー・表面処理技術部長、浜原京子さんだ。化学に関わる仕事を目指し、さまざまな会社見学に参加して鉄鋼業界にたどり着いたという。入社までの経緯や川崎製鉄(現JFEスチール)時代の業務内容、当時の思い出や苦労、子育てとの両立などについて聞いた。
――入社までの経緯を。
「小学校高学年のころから理系が大好きで、私は化学を学ぶと決めていました。奈良女子大学理学部化学科(現化学生物環境学科化学コース)に進学後は、錯体の反応化学について研究。女子大は大学院に進学する学生が例年約1人など全然いなくて、4年学んだら就職するのが当然と思っていましたね。仕事も化学に携わりたいと思い、最初は薬品や酒類を扱う企業を考えていました。ある時、川崎製鉄から大学に工場見学のお誘いが来ていて、関西から1泊2日かけて参加しました。工場は大きくて、ここは何だろうと不思議な気持ちで見ていましたね。技術研究所に案内していただいた際、ビーカーやフラスコ、ガラス器具、分析装置などなじみ深い研究道具がたくさんあって、いろんな産業で化学が必要とされていると知ったんです。次第に興味を持ち、祖父が『鉄鋼業界は基盤産業だからすごく良い』と勧めてくれたことも影響し、1982年に入社しました」
――入社後は。
「技術研究所内の表面処理研究部、缶・ラミネート研究部に配属されました。入社時、同期に研究所の女性社員がもう2人いました。当時鉄鋼メーカーで女性を採用していたのは川崎製鉄だけではないでしょうか。私が入る約10年前から採用していました。私は香川県の田舎出身なので、立派な会社に入ったとなると家族も心配だったようです。母からは『毎日雑巾を持って行って、同じ部署の人の机を拭きなさい。早く出勤して、みんなの分のお茶を入れなさい』と言われましたね」
――助言のままに行動した。
「社会人としての経験がなく、世の中の風潮などから男女が同等に扱われない覚悟を持っていたので、そんなものかという感覚で母の言う通りにしていました。配属から1週間後、3歳上の女性の先輩から、この行動を止めるように諭されました。『あなたは満足かもしれないけど、習慣づけば今後入ってくる女性社員も同じことをやらないといけなくなってしまう』と。母にはやり続けるよう言われましたが、お互いの考えや生きてきた時代の違いもありますし、先輩の話に納得してすぐに止めましたね」
――業務は。
「表面処理研究部でまず缶用鋼板を10年担当しました。今は目にする機会が減っていますが、当時の飲料は缶が主流で、新しい缶用鋼板の素材作りを4人チームで行っていました。めっきの使用量を4分の1まで減らしながら、耐久性は向上させるといった内容ですね。この研究で発明表彰をいただいたのですが、式典の案内状に『ご令室もご一緒にご参加ください』と書かれていて、研究者が男性前提であると痛感し複雑な気持ちになりました。私は夫とともに参加したのですが、各メーカーの方々がいらっしゃる中で、女性の受賞者は私1人。逆に言うと、連れ添いとして招待された男性は夫のみという状態でした」
――その後は。
「自動車用鋼板を約10年担当しました。90年に長男を、94年に長女を出産しているのですが、ちょうど長女を出産したタイミングで、自動車のドア成形性に優れた新しい表面処理処理方法のライントライがあり、中国地方の工場へ毎月出張していました。振り返ると、0歳児を育てながらよく行けていたなと思います。香川県から私と夫の母が交代で関東の自宅まで来てくれて、子育てのフォローをしてくれました。離れていても手を貸してくれて、今まで以上に仲良くなれたように感じます」
――子育てと仕事を両立する日々だった。
「1人目の長男のときは育児休暇制度がなく、保育園も見てくれない状況でした。人のつてで“保育ママさん"という存在にたどり着き、その方に預けていましたね。実家が近い方や社内結婚の方は日常的に子育てのフォローなどを受けやすいと思うのですが、私はどちらにも当てはまらないので大変でした」
――印象的な思い出を。
「長男が生後半年のときに、米国の国際学会に参加しました。母に長男を引き取りに来てもらったのち、渡航。2週間ほど滞在しました。米国では、学会の前に司会者と交流を深めるためのランチ会があり、司会者がみんなの前で私のことを紹介してくださったんです。『彼女は半年前に出産しました。今は母親が日本で子守りをしてくれていますが、自宅から飛行機で1時間掛かる場所なんだそうです』。すると会場がワーッとざわめきだし、驚く声が聞こえてきました。トイレに行った際には、他の参加者から『子供を預けて女性がここに来ているなんてすごいわ』と声を掛けられましたね。この学会も男性の参加者がほとんどでしたが、米国の方が女性の社会進出などいろんな面で進んでいる印象を持っていたので、米国で驚かれたということに驚きました(笑)」(芦田 彩)
――入社までの経緯を。
「小学校高学年のころから理系が大好きで、私は化学を学ぶと決めていました。奈良女子大学理学部化学科(現化学生物環境学科化学コース)に進学後は、錯体の反応化学について研究。女子大は大学院に進学する学生が例年約1人など全然いなくて、4年学んだら就職するのが当然と思っていましたね。仕事も化学に携わりたいと思い、最初は薬品や酒類を扱う企業を考えていました。ある時、川崎製鉄から大学に工場見学のお誘いが来ていて、関西から1泊2日かけて参加しました。工場は大きくて、ここは何だろうと不思議な気持ちで見ていましたね。技術研究所に案内していただいた際、ビーカーやフラスコ、ガラス器具、分析装置などなじみ深い研究道具がたくさんあって、いろんな産業で化学が必要とされていると知ったんです。次第に興味を持ち、祖父が『鉄鋼業界は基盤産業だからすごく良い』と勧めてくれたことも影響し、1982年に入社しました」
――入社後は。
「技術研究所内の表面処理研究部、缶・ラミネート研究部に配属されました。入社時、同期に研究所の女性社員がもう2人いました。当時鉄鋼メーカーで女性を採用していたのは川崎製鉄だけではないでしょうか。私が入る約10年前から採用していました。私は香川県の田舎出身なので、立派な会社に入ったとなると家族も心配だったようです。母からは『毎日雑巾を持って行って、同じ部署の人の机を拭きなさい。早く出勤して、みんなの分のお茶を入れなさい』と言われましたね」
――助言のままに行動した。
「社会人としての経験がなく、世の中の風潮などから男女が同等に扱われない覚悟を持っていたので、そんなものかという感覚で母の言う通りにしていました。配属から1週間後、3歳上の女性の先輩から、この行動を止めるように諭されました。『あなたは満足かもしれないけど、習慣づけば今後入ってくる女性社員も同じことをやらないといけなくなってしまう』と。母にはやり続けるよう言われましたが、お互いの考えや生きてきた時代の違いもありますし、先輩の話に納得してすぐに止めましたね」
――業務は。
「表面処理研究部でまず缶用鋼板を10年担当しました。今は目にする機会が減っていますが、当時の飲料は缶が主流で、新しい缶用鋼板の素材作りを4人チームで行っていました。めっきの使用量を4分の1まで減らしながら、耐久性は向上させるといった内容ですね。この研究で発明表彰をいただいたのですが、式典の案内状に『ご令室もご一緒にご参加ください』と書かれていて、研究者が男性前提であると痛感し複雑な気持ちになりました。私は夫とともに参加したのですが、各メーカーの方々がいらっしゃる中で、女性の受賞者は私1人。逆に言うと、連れ添いとして招待された男性は夫のみという状態でした」
――その後は。
「自動車用鋼板を約10年担当しました。90年に長男を、94年に長女を出産しているのですが、ちょうど長女を出産したタイミングで、自動車のドア成形性に優れた新しい表面処理処理方法のライントライがあり、中国地方の工場へ毎月出張していました。振り返ると、0歳児を育てながらよく行けていたなと思います。香川県から私と夫の母が交代で関東の自宅まで来てくれて、子育てのフォローをしてくれました。離れていても手を貸してくれて、今まで以上に仲良くなれたように感じます」
――子育てと仕事を両立する日々だった。
「1人目の長男のときは育児休暇制度がなく、保育園も見てくれない状況でした。人のつてで“保育ママさん"という存在にたどり着き、その方に預けていましたね。実家が近い方や社内結婚の方は日常的に子育てのフォローなどを受けやすいと思うのですが、私はどちらにも当てはまらないので大変でした」
――印象的な思い出を。
「長男が生後半年のときに、米国の国際学会に参加しました。母に長男を引き取りに来てもらったのち、渡航。2週間ほど滞在しました。米国では、学会の前に司会者と交流を深めるためのランチ会があり、司会者がみんなの前で私のことを紹介してくださったんです。『彼女は半年前に出産しました。今は母親が日本で子守りをしてくれていますが、自宅から飛行機で1時間掛かる場所なんだそうです』。すると会場がワーッとざわめきだし、驚く声が聞こえてきました。トイレに行った際には、他の参加者から『子供を預けて女性がここに来ているなんてすごいわ』と声を掛けられましたね。この学会も男性の参加者がほとんどでしたが、米国の方が女性の社会進出などいろんな面で進んでいる印象を持っていたので、米国で驚かれたということに驚きました(笑)」(芦田 彩)
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