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2024.12.24
2021年10月19日
鉄鋼業界で働く/女性取締役編 インタビュー(上)/誠心誠意で信頼得る
輸入鋼材を主に扱う鉄鋼商社、大成興業(本社=大阪市中央区、北野登社長)では、女性取締役が日々業務に当たっている。本社営業部統括部長も兼任する滝村美恵子さんだ。鉄鋼業界の第一線で30年以上活躍し、バブルやゴーン・ショックも乗り越えてきた。幅広い経験を持つ滝村さんに、鉄鋼業界へ入ったきっかけやこれまでの仕事内容について聞いた。
――鉄鋼業界で働かれて30年近いと伺いました。
「大学卒業後、他の鉄鋼商社に入社しました。男女雇用機会均等法が施行された1986年に初めて就職活動を行った学年だったんです。大学の授業で貿易実務に興味を持ち、商材を問わず商社中心に就職活動をしていましたね。施行後、募集欄に男女の文字が消え、総合職・一般職という記載が始まり、会社側も学生側も手探りの活動だったように思います」
――当時の様子は。
「仕事を始めた当初はバブル真っ盛りということもあり、土日も出勤が当然。デリバリーや納期調整などの電話が鳴りやまず、電話対応で勤務時間が終わる日もあるほど多忙で、夜になってから伝票作業に入る毎日でした。明るい時間に外の空気を吸いたい、緑を見たいと思っていた記憶があります。仕事を続けるうちに加工委託の新規開拓や販売先に顔を出すよう言われ、自然と営業の仕事もするようになりました。ところが数年後、会社が輸入鋼材を扱わない方針に転換してしまったんです。鉄のダイナミックさや面白さに惹かれていた私は、輸入鋼材に携わっていたいという気持ちでいっぱいでした。そんな時に、取引先だった北野社長(当時は営業2課課長)がお声がけくださり、92年2月、大成興業へ入社することになりました」
――入社当時の思い出を。
「最初は業務スタッフとして内勤から始めました。今ではあまりない、お茶当番や灰皿の交換も行っていたんですよ。しばらく経ってから、『外回りに行ったらどうか』と当時の社長が仰ってくださり、営業に行くようになりました。以前の会社でも外回りをしていたので、自然な流れだったのかもしれません」
――印象的な新規取引があったとか。
「当時は営業2課で薄板を担当していました。94年にたまたま母と香港旅行に出かけ、帰りの飛行機のエコノミー席で私たちの隣に日本人男性が座られました。食事が出てきたタイミングで男性とも話してみたところ、とても面白い方で。ものすごく話が盛り上がりました。その方は実はある電機メーカーの資材部長で、『また帰ったら会いましょう』とその場で名刺をもらい、後日会社を訪問させていただきました。ご縁があって新規取引を開始させていただき、大成興業にとって初めての直接ユーザー取引となりました」
――ドラマのようですね。
「バブルがはじけた後だったので、どの業界もコストダウンが命題だった時代でした。だからこそ、モノづくりを行うユーザーさまに輸入鋼材を販売開始できたのだと思います。当時の大成興業はコイルセンターを中心とした店売りのみを行っていましたが、どうしてもそれでは景気に左右されてしまいます。エンドユーザーであれば安定した取引ができると考えていました」
――大変だったことは。
「99年のゴーン・ショックをきっかけに、鉄鋼メーカーの株価下落、価格競争の激化など、さまざまな変化が生まれました。冷延鋼板が海上運賃込みでトン2万7000円まで下がったのを今でも覚えています。その後、過当競争を避けて市場の健全化を図ろうと、店売りトン3万円分を一斉値上げする動きが始まりました。すぐに値上げのできないユーザーひも付き取引は大赤字になり、育ててきた取引を自ら縮小しなければならなくなったことが一番辛かったですね。13―14年後にこのお取引が復活するといううれしい後日談もあるのですが…」
――女性として働いてきた中で感じたことは。
「女性であることを特別に意識して仕事をしたことはありませんが、少ないこともあってすぐに名前を覚えてもらいやすいです。珍しく感じていただいたことで、新規開拓のアポイントを取り付けられたこともありましたね。熱く誠心誠意を持った仕事で信頼していただけるよう尽力しました」(芦田 彩)
鉄鋼業界で活躍する女性をはじめとした多様な人材、未来を担う人材を、随時紹介していきます。
――鉄鋼業界で働かれて30年近いと伺いました。
「大学卒業後、他の鉄鋼商社に入社しました。男女雇用機会均等法が施行された1986年に初めて就職活動を行った学年だったんです。大学の授業で貿易実務に興味を持ち、商材を問わず商社中心に就職活動をしていましたね。施行後、募集欄に男女の文字が消え、総合職・一般職という記載が始まり、会社側も学生側も手探りの活動だったように思います」
――当時の様子は。
「仕事を始めた当初はバブル真っ盛りということもあり、土日も出勤が当然。デリバリーや納期調整などの電話が鳴りやまず、電話対応で勤務時間が終わる日もあるほど多忙で、夜になってから伝票作業に入る毎日でした。明るい時間に外の空気を吸いたい、緑を見たいと思っていた記憶があります。仕事を続けるうちに加工委託の新規開拓や販売先に顔を出すよう言われ、自然と営業の仕事もするようになりました。ところが数年後、会社が輸入鋼材を扱わない方針に転換してしまったんです。鉄のダイナミックさや面白さに惹かれていた私は、輸入鋼材に携わっていたいという気持ちでいっぱいでした。そんな時に、取引先だった北野社長(当時は営業2課課長)がお声がけくださり、92年2月、大成興業へ入社することになりました」
――入社当時の思い出を。
「最初は業務スタッフとして内勤から始めました。今ではあまりない、お茶当番や灰皿の交換も行っていたんですよ。しばらく経ってから、『外回りに行ったらどうか』と当時の社長が仰ってくださり、営業に行くようになりました。以前の会社でも外回りをしていたので、自然な流れだったのかもしれません」
――印象的な新規取引があったとか。
「当時は営業2課で薄板を担当していました。94年にたまたま母と香港旅行に出かけ、帰りの飛行機のエコノミー席で私たちの隣に日本人男性が座られました。食事が出てきたタイミングで男性とも話してみたところ、とても面白い方で。ものすごく話が盛り上がりました。その方は実はある電機メーカーの資材部長で、『また帰ったら会いましょう』とその場で名刺をもらい、後日会社を訪問させていただきました。ご縁があって新規取引を開始させていただき、大成興業にとって初めての直接ユーザー取引となりました」
――ドラマのようですね。
「バブルがはじけた後だったので、どの業界もコストダウンが命題だった時代でした。だからこそ、モノづくりを行うユーザーさまに輸入鋼材を販売開始できたのだと思います。当時の大成興業はコイルセンターを中心とした店売りのみを行っていましたが、どうしてもそれでは景気に左右されてしまいます。エンドユーザーであれば安定した取引ができると考えていました」
――大変だったことは。
「99年のゴーン・ショックをきっかけに、鉄鋼メーカーの株価下落、価格競争の激化など、さまざまな変化が生まれました。冷延鋼板が海上運賃込みでトン2万7000円まで下がったのを今でも覚えています。その後、過当競争を避けて市場の健全化を図ろうと、店売りトン3万円分を一斉値上げする動きが始まりました。すぐに値上げのできないユーザーひも付き取引は大赤字になり、育ててきた取引を自ら縮小しなければならなくなったことが一番辛かったですね。13―14年後にこのお取引が復活するといううれしい後日談もあるのですが…」
――女性として働いてきた中で感じたことは。
「女性であることを特別に意識して仕事をしたことはありませんが、少ないこともあってすぐに名前を覚えてもらいやすいです。珍しく感じていただいたことで、新規開拓のアポイントを取り付けられたこともありましたね。熱く誠心誠意を持った仕事で信頼していただけるよう尽力しました」(芦田 彩)
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