大阪鉄鋼流通協会(OSA)は1969年4月、「大阪鉄鋼特約店組合」として産声を上げた。大阪の鋼材流通業の地位向上、発言力の強化、情報交換の促進などを目的に創立したもので、“なにわの鉄あきんど"を代表する団体として活動してきた。91年には現名称に変更し、現在に至るまでの激変の時代の中で存在感を発揮してきた。今年4月に創立50周年を迎え、きょう27日には大阪市内のホテル日航大阪で創立50周年記念祝賀会を開催する。50年の節目を迎えた同会の阪上正章会長(清和鋼業社長)に思い出、今後の展望などを聞いた。
――OSAはどういった経緯で創立されたのか。
「1960年代は64年に三井物産と木下産商が合併し、65年には山陽特殊製鋼の倒産など、企業の大型倒産が相次いだ。68年に八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鉄が設立するなど、激動の時代だった。鉄鋼流通業界も過当競争、焦げ付きの発生、連鎖倒産など、前途への不安感が高まっていた。共通の悩みを抱える東京から『特約店の全国組織を作ろう』との呼びかけがあったが、大阪には受け皿になる組織がなかった。そこで、われわれの諸先輩方々が大阪に特約店の団体を作ろう、ということで意見が一致し、54社の発起人を集めた。69年4月に大阪商工会議所で前身の大阪鉄鋼特約店組合の創立総会を開催し、誕生した。誕生後すぐに、東京、大阪、名古屋、神奈川の組合などが集まり、全国組織設立に動き出し、翌70年の全国鉄鋼特約店連合会(現・全国鉄鋼販売業連合会)結成につながった、と聞いている」
――阪上会長はいつ頃から、OSAの活動に関わったのか。
「74年に家業の清和鋼業に入社し、まだ右も左もわからない状態だったが、会社からOSAの形鋼部会や厚板部会にも出席する仕事を任された。その頃からと考えると、OSAという業界団体とは長くお付き合いさせてもらっている。当時のOSAの印象としては委員会や品種ごとの部会など組織がきっちりと整備され、委員会・部会で何をやるかということも定まっていて、活動自体も活発で、事務局を含めてスムーズな運営をしていた、というのが印象的だった。会議面で言えば、鉄流懇は毎月1回行われ、当時の幹部は上部団体の全鉄連の活動にも積極的に参加していた。後から思ったのだが、あの時のOSAは創立から10年、15年を経たような団体という感じで、まだ5年しか経っていなかったことは良い意味で驚きだった。諸先輩方が組織づくりや運営をしっかりと行ってくれたおかげだと思う」
――組織は創立当初からは多少、変化した。
「創立当初は企画委員会、市況対策委員会、従業員対策委員会、取引改善委員会の4委員会と、厚板部会、薄板部会、形鋼部会、棒鋼部会、加工製品部会の5部会だった。部会は71年にパイプ部会が加わり6部会となったが、79年4月に加工製品部会は形鋼部会に吸収され、現在の5部会体制が続いている。委員会は研修交流委員会、企画広報委員会、総務委員会、マーケット委員会の4委員会となっている。ただ、基本的な組織体系は変わっていない」
――91年に現在の名称を変更した。
「全国的に各地の流通団体は"特約店"という冠を付けていたが、時代が移り、流通業者にとって鉄鋼の"特約"という部分の意味合いが薄れていた。そうした中で、団体名に『"特約店"の冠を付けるのは相応しくなく、もっとわかりやすい名称にしては…』との意見が出され、当時の西野公庸理事長などが判断し、次の中西順一郎理事長の時代に名称から"特約店"をはずして、現在の『大阪鉄鋼流通協会』に変更した。このような名称変更は大阪がいち早く行ったようで、その後、全国の他地区の組織でも同じような名称変更が行われた。全鉄連も2000年に、名称を全国鉄鋼特約店連合会から現在の全国鉄鋼販売業連合会に変えた。時代の流れに合わせた名称変更だったのだろう」
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