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2024.12.20
2017年1月19日
永久磁石の世界的第一人者 佐川眞人氏に聞く(大同特殊鋼顧問)(上) 金属学会シンポ 開発のヒント得る
永久磁石「ネオジム磁石」は家電・産業機器・自動車・医療機器などに使用され、これらの機器の小型化・軽量化、高出力化、省エネルギー化を実現し、現代社会を支える基礎材料。この貴重な基礎材料を開発したのは佐川眞人・大同特殊鋼顧問。過去に大河内記念賞、日本国際賞を受賞し、2016年にはノーベル賞候補に名を連ねた日本を代表する研究者に、生い立ち、学生時代、開発の経緯などを聞いた。
――幼少の頃は。
「43年に徳島県で生まれたのですが、父親が川崎航空機に勤めていた関係で、岐阜県の各務原に移り、そこの社宅に住んでいた。しかし、戦争が激しくなり、母の実家のある徳島に戻ったが、1―3歳時には空襲で危険な目にもあったそうです。そのせいか、幼少の頃は赤い夕陽を見ると、『バクダン ドカドカー』と言うことが多かったそうですが、トラウマにはなっていない。小学校の頃、父は徳島で食料品や雑貨の小売店を経営、繁盛し、物が少ない時代に、比較的に裕福な生活を送っていた。そうした環境の中、私自身は明るくて、元気、素朴な性格だった。運動は、足は速いが、野球など球技は苦手だった。勉強は努力したこともあり、クラスで1―2番だった。父親の思い出としては、小学生の私によく新聞を読んで聞かせてくれた。その時に、色々な分野で活躍している人の話題を紹介してくれ、中でも、湯川秀樹先生がノーベル賞を受賞した話が印象に残り、『僕は科学者になって、ノーベル賞をとる』とよく言っていました」
――中学生時代以降は生活環境が変化したそうだが…。
「小学6年生の頃、父が事業に失敗し、生活も大きく変わった。徳島から神戸、そして尼崎に引越し、中学校も転校を経験した。転校時に学校の成績が一時下ったが、努力してクラスの1―2番に回復。この頃から、理科系の少年で、数学や理科が得意だった。誰の影響を受けた訳ではないが、高度成長期で工業の発展を目の当たりにしたこともあり、当時から本能的に自分の目指すべき方向を決めていた。大学の志望校を決める時、担任の先生に相談すると、神戸大学電気工学科を勧められ、アドバイスに従い、受験し、入学した」
――大学生活はどうだったか。
「最初の2年間は教養課程。教養課程の間は陸上競技部に入り、400メートルの練習に精を出すとともに、ロマン・ローラン、トルストイ、夏目漱石など色んな文学作品を読んだ。合唱団に入り、歌も歌った。ただ、専攻の電気工学の勉強には身が入らず、4回生の時は大学院に進むことを決めたが、当時の成績では大学院進学は無理と言われたことで、猛勉強し、トップで大学院に合格することができた。すでに、大学4年間で自分の目指すべき方向は電気工学ではないと悟り、湯川博士への憧れも蘇り、基礎研究を学びたいと思った。そこで、工学部共通講座応用物理研究室に入り、そこでの固体の表面の構造や結晶成長の初期段階の研究に遭遇し、夢中になって研究に没頭した。修士課程を修了し、東北大学の金属材料研究所の下平三郎先生の金属の腐食の研究室に入った。金属材料研究所では多くの有能な研究者に出会い、材料科学の基礎をしっかりとしたものにした。ただ、その後も大学に残り研究を続けたかったが、なかなかいい論文が書けなかったこともあり、大学で研究することを断念し、富士通に就職した」
――社会人時代に磁石の研究に携わることになる。
「富士通の研究所に入り、会社の指示で『リレーやスィッチに使う磁性材料』の開発に携わるようになった。入社5年目には『フライングスイッチ用サマリウム・コバルト(SmCo)磁石』を開発するよう言われ、磁石の研究を開始した。磁石については独学で勉強し、磁石の製造装置も自分で製作した。どんどん研究にのめり込み、機械的な強度を持ったSmCo磁石の開発を進めた。そうした過程で、鉄をベースにして作れば、強力な磁石ができるのではないか、と思い始めた。当時は誰もやろうとしていなかった。ただ、この時に開発にヒントとなる機会を得た。それは78年1月に日本金属学会が主催したシンポジウム『希土類磁石の基礎から応用まで』での浜野正昭先生の説明の中に、R―Fe化合物(希土類と鉄)が磁石にならない理由について、『鉄と鉄の原子間距離が近過ぎるので、磁性が不安定になる』という部分があった。その時に、『カーボン(C)やボロン(B)を合金化すれば、原子間の距離を広げることができ、安定した強力な磁石になるのではないか』と思った。そして、この年にNd―Fe―B(ネオジム―鉄―ボロン)の組み合わせが磁石として有望ということに気付いた。しかし、当時の社内では、SmCo磁石の研究については会社の目標を達成していたが、Nd―Fe―B磁石については研究の許可を得ることができなかった。その後、会社が磁石の研究の終了を決断した。私自身は、Nd―Fe―B磁石の研究を続けたいと思い、82年住友特殊金属(現・日立金属)に入社した」
(天野 充造)
――幼少の頃は。
「43年に徳島県で生まれたのですが、父親が川崎航空機に勤めていた関係で、岐阜県の各務原に移り、そこの社宅に住んでいた。しかし、戦争が激しくなり、母の実家のある徳島に戻ったが、1―3歳時には空襲で危険な目にもあったそうです。そのせいか、幼少の頃は赤い夕陽を見ると、『バクダン ドカドカー』と言うことが多かったそうですが、トラウマにはなっていない。小学校の頃、父は徳島で食料品や雑貨の小売店を経営、繁盛し、物が少ない時代に、比較的に裕福な生活を送っていた。そうした環境の中、私自身は明るくて、元気、素朴な性格だった。運動は、足は速いが、野球など球技は苦手だった。勉強は努力したこともあり、クラスで1―2番だった。父親の思い出としては、小学生の私によく新聞を読んで聞かせてくれた。その時に、色々な分野で活躍している人の話題を紹介してくれ、中でも、湯川秀樹先生がノーベル賞を受賞した話が印象に残り、『僕は科学者になって、ノーベル賞をとる』とよく言っていました」
――中学生時代以降は生活環境が変化したそうだが…。
「小学6年生の頃、父が事業に失敗し、生活も大きく変わった。徳島から神戸、そして尼崎に引越し、中学校も転校を経験した。転校時に学校の成績が一時下ったが、努力してクラスの1―2番に回復。この頃から、理科系の少年で、数学や理科が得意だった。誰の影響を受けた訳ではないが、高度成長期で工業の発展を目の当たりにしたこともあり、当時から本能的に自分の目指すべき方向を決めていた。大学の志望校を決める時、担任の先生に相談すると、神戸大学電気工学科を勧められ、アドバイスに従い、受験し、入学した」
――大学生活はどうだったか。
「最初の2年間は教養課程。教養課程の間は陸上競技部に入り、400メートルの練習に精を出すとともに、ロマン・ローラン、トルストイ、夏目漱石など色んな文学作品を読んだ。合唱団に入り、歌も歌った。ただ、専攻の電気工学の勉強には身が入らず、4回生の時は大学院に進むことを決めたが、当時の成績では大学院進学は無理と言われたことで、猛勉強し、トップで大学院に合格することができた。すでに、大学4年間で自分の目指すべき方向は電気工学ではないと悟り、湯川博士への憧れも蘇り、基礎研究を学びたいと思った。そこで、工学部共通講座応用物理研究室に入り、そこでの固体の表面の構造や結晶成長の初期段階の研究に遭遇し、夢中になって研究に没頭した。修士課程を修了し、東北大学の金属材料研究所の下平三郎先生の金属の腐食の研究室に入った。金属材料研究所では多くの有能な研究者に出会い、材料科学の基礎をしっかりとしたものにした。ただ、その後も大学に残り研究を続けたかったが、なかなかいい論文が書けなかったこともあり、大学で研究することを断念し、富士通に就職した」
――社会人時代に磁石の研究に携わることになる。
「富士通の研究所に入り、会社の指示で『リレーやスィッチに使う磁性材料』の開発に携わるようになった。入社5年目には『フライングスイッチ用サマリウム・コバルト(SmCo)磁石』を開発するよう言われ、磁石の研究を開始した。磁石については独学で勉強し、磁石の製造装置も自分で製作した。どんどん研究にのめり込み、機械的な強度を持ったSmCo磁石の開発を進めた。そうした過程で、鉄をベースにして作れば、強力な磁石ができるのではないか、と思い始めた。当時は誰もやろうとしていなかった。ただ、この時に開発にヒントとなる機会を得た。それは78年1月に日本金属学会が主催したシンポジウム『希土類磁石の基礎から応用まで』での浜野正昭先生の説明の中に、R―Fe化合物(希土類と鉄)が磁石にならない理由について、『鉄と鉄の原子間距離が近過ぎるので、磁性が不安定になる』という部分があった。その時に、『カーボン(C)やボロン(B)を合金化すれば、原子間の距離を広げることができ、安定した強力な磁石になるのではないか』と思った。そして、この年にNd―Fe―B(ネオジム―鉄―ボロン)の組み合わせが磁石として有望ということに気付いた。しかし、当時の社内では、SmCo磁石の研究については会社の目標を達成していたが、Nd―Fe―B磁石については研究の許可を得ることができなかった。その後、会社が磁石の研究の終了を決断した。私自身は、Nd―Fe―B磁石の研究を続けたいと思い、82年住友特殊金属(現・日立金属)に入社した」
(天野 充造)
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