中華人民共和国は1949年の建国初期から各地に製鉄所を建設してきた。国の発展に不可欠な基礎資材を供給する鉄鋼業は経済の高度成長を追い風に拡大。粗鋼生産量は96年に日本を抜いて以後、世界一に君臨し続け、2014年に世界生産の半分を占める8億2270万トンに達したが、翌年に減速。史上最大の鉄鋼能力は自らを蝕み、海外市場を混乱に陥れている。世界の鉄鋼業を変えた中国の過剰能力の解消に向かう習政権。その改革は世界に新たな変化を及ぼそうとしている。
■鉄鋼大躍進
「重工業にあって張之洞を忘れることはできない」(毛沢東・国家首席)。
清朝末期に富国強兵の機運が高まり、近代化推進の洋務派の領袖で湖広総督(現在の湖北省知事に相当)の張之洞は現在の湖北省武漢市近郊の大冶で1890年に鉄鉱山の開発に着手した。
同年に中国初の官営製鉄所、漢陽鉄厂を建設。炉内容積248立方メートルの高炉2基と転炉2基、幅800ミリの圧延機が94年に稼働し、1910年に12万トンを製銑。鉄道レールなどを製造した。大冶の鉄鉱石は開業時の八幡製鉄所にも送られた。
37年の盧溝橋事件、その後の南京陥落で国民政府は武漢、次いで重慶へと遷都。重工業を守ろうと漢陽鉄厂を重慶に移した(後に重慶鋼鉄となる)。
国共内戦を終え、新中国を率いる毛主席は鉄鋼生産で英国を抜こうと製鉄所の建設に邁進する。52年からの第1次5カ年計画で鉄鋼投資の約半分を鞍山製鉄所に注ぎ、ハルピンや吉林に製鉄所を建て、東北に国内最大の鉄鋼基地を形成。内陸部の需要も考慮し、54年に武漢鋼鉄の建設計画を認めた。
58年9月13日。武鋼の第1号高炉の初出銑式に出席した毛主席は、「一つの食糧と一つの鉄鋼があればなんでもできる」との言葉を残す。産業のコメである鉄鋼の増産にひた走り、59年には包頭鋼鉄(内蒙古自治区)が操業を始めた。
第2次5カ年計画開始の58年から大躍進の目玉として全国人民製鉄・製鋼運動を展開。前近代的な土法高炉が各地に造られ、木材伐採が問題化した。政府は投資を続け、首都鋼鉄や太原鋼鉄、唐山鋼鉄など大手を改称発展。国防の観点から西部地区に投資を移し、水城鋼鉄(貴州省)を67年、酒泉鋼鉄(甘粛省)と攀枝花鋼鉄(四川省)を70年に稼働させた。建国翌年の50年に61万トンだった粗鋼生産は75年に2390万トンに拡大した。
■改革開放と国際化
72年9月29日。日中共同声明が調印され、日中国交回復の象徴的プロジェクトとして新日本製鉄による武鋼への技術協力が同年に始まった。
77年、上海での大型製鉄所建設に新日鉄が協力する宝山プロジェクトがまとまった。鄧小平氏による改革開放政策の象徴ともなり、85年9月に第1高炉が稼働。粗鋼生産は86年に5000万トンに達し、10年後の96年に1億トンを超えた。鉄鋼自給率は80年代の60―70%から90年代後半に90%以上に上昇した。
90年代に年平均約500万トンと緩やかだった粗鋼生産の増加量は01年のWTO加盟で劇変する。01年に突如2250万トン増え、02年は3100万トン増加。03、04年とも4000万トン増え、05―07年は7000万トン前後増え続け、08年に粗鋼生産5億トンと世界2位の日本の5倍近くに膨張。国有鉄鋼企業が能力を増強し、民営企業が続々と参入した。
中央政府は量的拡大を改めようと鉄鋼業を対象とした初の綱領的施策体系の「鉄鋼産業発展政策」を05年7月に交付。06年からの第11次5カ年鉄鋼発展計画で老朽化・小規模設備を淘汰したが、新規設備の建設は止まらなかった。
■能力12億トン強へ
リーマン・ショック時の中央政府による4兆元(当時=約57兆円)の財政投資で需要が増えると読んだ鉄鋼業は能力増強のアクセルを踏む。
98年から10年間で4億トン増えた粗鋼生産量は08年から13年の5年間で2億8000万トン増と勢いを強めた。能力は14年末に12億トン以上に増え、生産は14年に初の8億トン超え。民営企業が生産の5割強を占めた。
大量の鋼材を吸収する力は国内になく、06年に鋼材の純輸出国に転じてから増加を続けた輸出は14年に前年比1・5倍と急増。15年も1・2倍増え、日本の粗鋼生産に匹敵する1億1240万トンの中国製鋼材が世界の需給を狂わせている。(上海支局=植木美知也)