鉄鋼業界で40年以上、営業の第一線で働く女性がいる。メタルワン大阪支社大阪厚板課の大谷裕子さんだ。男女雇用機会均等法の施行前に入社し、厚板の国内営業をメインに担当。現場を回るなど精力的に業務に取り組んでいる。これまで鉄鋼業界で感じてきたことや仕事の魅力について聞いた。
――今年で勤続42年目だと伺いました。
「短期大学卒業後の1980年に日商岩井(現双日)に入社しました。最初は一般職で、2008年に総合職へ転換し、2年前に定年退職。現在は雇用延長制度を利用し嘱託職員として、今までと変わらず厚板の営業に取り組み、現場にも積極的に足を運んでいます」
――入社したころは日本社会が今とかなり違ったと思います。
「今では想像もできないと思いますが、当時は、女性は就職して数年で結婚・退職し、仕事はそれまでの社会勉強というのが一般的な人生の考え方で、総合職でキャリアを積むという考えの人がまだ少なかった時代でした。私自身も同様に、3―4年で寿退社し仕事から離れると思っていましたね。また当時の鉄鋼部門は花形というイメージがありました。ただ、繊維や機械など他部門に比べると、男社会で歴史がある場所。女性で活躍している人は周りでほとんどいませんでした」
――ところが、営業の魅力に夢中になってしまった。
「本州四国連絡橋公団の仕事に携わる機会がありました。その後社員旅行で淡路島に行った時、完成した橋を見たんです。自分がメーカーにつないだ鋼材が立派な橋になったと知って、自分の仕事が社会貢献につながっていると感じました。また『大谷さんが注文インプットしてできた橋だよ』と周囲に言われ、仕事の喜びを知り、心の中のどこかにあった“自分も商売をやってみたい、もっと仕事を続けて社会と関わりたい"という気持ちが強くなりました」
――その後、本格的に営業に関わることになったのですね。
「当時は“仕事はできる人がやる"という風潮だったことや、今ほど職掌ごとの業務範囲がはっきり分けられていなかったこともあり、一般職のまま総合職社員の見よう見まねで、営業の仕事に関わるようになりました。契約が決まるたびにモチベーションが湧いてきたのを覚えています。上司が『責任は僕が取るから、好きなようにやっていい。儲けてみなさい』と言ってくれたので、逆に責任を持ってやらなくてはと気が引き締まりました。周囲も理解があり、そっと見守りながら自由に仕事をさせていただきました」
――仕事はどのように覚えていきましたか。
「私の場合、取引先のお客さまから仕事の多くを教わりました。総合職であれば研修など社内で教わる機会がありますが、当時の私は一般職ということもあり研修が充実していなかったためです。扱う製品、技術的な部分から、商売に関わることまで沢山教えてもらいました。失敗した時には叱っていただくこともありましたが、全て貴重な財産となり本当に感謝しています」
――男女雇用均等法が1986年に施行された際は、労働組合も兼任されていたそうですね。
「86―88年の2年間組合本部の執行委員を務め、従業員のために会社の団体交渉を通じて、経営陣と話をする機会なども得ました。社内で何かが大きく変わることはありませんでしたが、世間を見ていると、総合職の女性が増え始め、テレビで特集されることなどもあり、徐々に社会が変わりつつあるように感じました。一方で、会社の中での女性への期待値はまだまだ低いと痛感する場面も多々ありました」
――仕事で印象的な思い出はありますか。
「2000年ごろ、輸出の案件が社内に飛び込んできたのですが、貿易関係の担当者がたまたま出張中でおらず、急きょ私が担当することになりました。これまでは国内の仕事しかしていなかったので、貿易自体に触れるのも初めてでしたし、手探りで行っていました。最初は150トンくらいからの契約だったのですが、次第に1000トン、1400トン、2400トンと規模が大きくなっていきました。初めての分野で契約からデリバリーまで一気通貫でやり遂げたことは、自分の貴重な経験になったと同時に大きな自信にもつながりました」(芦田 彩)
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